摘 要:中國人の言語習(xí)慣は日本人と違うため、コミュニケーションにおける日本人の「曖昧語」は中國人にとって理解しにくいものである。日本人とうまくコミュニケーションをするためには、「曖昧語」の素質(zhì)を備える必要があると思われる。この素質(zhì)を備えるには、まず「曖昧語」についての正しい理解とその文化的根拠を研究する必要があると思われる。そこで、筆者は色々な資料を調(diào)べた上で、「曖昧語」の定義、日常會話の「曖昧語」、コミュニケーションから見られる日本人の「曖昧語」など三つの面からコミュニケーションにおける日本人の「曖昧語」について検討しようと思う。
キーワード:曖昧語 コミュニケーション 婉曲表現(xiàn)
1.「曖昧語」の定義
[曖昧語]についてはいくつかの定義があるので、ここでおおまかに紹介しておく。
本當(dāng)の曖昧語とは何であろうか。
「広辭苑(第5版)」 にて「曖昧」の意味を調(diào)べると、「確かでないこと。まぎらわしく、はっきりしないこと?!工葧い皮ⅳ搿¥工胜铯敛幻鞔_、不明瞭なもの·ことを指すと考えられる。
「國語學(xué)大辭典」(1975:264)では、①思いやること。②気のつくこと③自分の身に比べて人の身について思うこと。④相手の立場や気持を理解しようとする心、同情。⑤よくない狀態(tài)になるのではないかと案じる、心配するなどのように書かれている。
2.日常會話の「曖昧語」
2.1 挨拶の類
日本人が町で知人と出會いの時は、常に公式化した曖昧のあいさつ語を使用する。
例えば、
A:こんにちは。おでかけですか。
B:こんにちは、ちょっとそこまで。
A:そうですか、気をつけてね。
B:どうも。
その會話での表した「ちょっとそこまで」中の「そこまで」はいったいどこかわからない。答え者のBははっきりと言わない。それと同じように尋ねるAの人は実際にBの人がどこへ行くことか質(zhì)問せずに、同様に相手もどこかが行くことがさっぱりわからない。答え者のBも一體どこへ行くかと返答しない。しかも日本人は相手「どちらへお出かけですか」と質(zhì)問しているのは、決して相手の行き先が知りたいわけではない。ただ知人の間の挨拶する。答え者のBは直ちに心で悟る「ちょっとそこまで」に回答する。こちらの「ちょっとそこまで」、実は「ご心配なく」の同義語である。相手に自分で行くの具體的場所を告げることがない。したがって、問い者は相手が具體的にどこへ行くかが質(zhì)問しなく、ただ関心することを示して、こちらが當(dāng)然で根掘り葉掘り聞いたのではなくて、直ちに「そうですか、お気をつけてね」と答える。そのあいさつの仕方は歐米の人にふさわしくない?;イ酥椁胜と摔耸褂盲工欷?、相手を怒らせるかもしれない。歐米の人は個人が「どこへ行くか」というのは完全に私的自由で、問い詰めることは相手を干渉して道理がない行為であろう。各國の歴史と文化背景が違うからそれぞれの民族の間、形成された心理黙契の程度あるいは思惟の方式も違う。
2.2 多義語の類
日本人はよく「どうも」を使っている。たとえば、「どうもだめな」、「先日はどうも」、「先ほどはどうも」、「どうもありがとう」、「どうもすみません」、「これはどうも」、「どうも、どうも面倒をおかけしました」などあげればきりない?!袱嗓Δ狻工摔膜い普{(diào)べていると、「どうしても」、「いかにすれでも」、「まったく」の三つの意味がある。つまり、仕方がない、どうしてよいかわからないといった意味がある。
多義語であるがゆえに、日本人特有な語感、つまり、さまざまな意味をひとつの語句で表現(xiàn)したために、外國人には曖昧だという印象を與えてしまったのであろう。こんな言葉や表現(xiàn)が日本語に數(shù)多く存在している。例えば、「くやしい」という言葉には、「試合に負(fù)けて悔しい」、「彼はやりたい事はやった?;冥筏い韦扦悉胜ぁ工胜嗓卫ⅳ搿¥ⅳ毪い?、「しかたがない」という日本語には、「女だから仕方がないんじゃないのと言ってあきらめてしまう場合もある」「選挙に負(fù)けたのだから、文句を言ってもしかたがない」「娘がかわいくてしかたがない」などである。
日本語には類似の表現(xiàn)は多いので、あげればきりがない。日本人として特有な語感は外國人たちにとって、非常に難しく理解と考えている。
3.コミュニケーションにおける日本人の曖昧語
日常生活の中に「ノー」と言わない日本人ということがよく話題になる。
日本人は會話をしながら、お互いに気持ちが一致していることを喜ぶ。そのために、日本人は「わたし」をはっきりさせて、相手と向かい合って親しく話し合っている最中に「いや、そうではありません」とか、「いや、おっしゃった意見に反対です」とか、「いいえ、それは違います、わたしはこう聞いています」というように、はっきりと「ノー」という「反対」の意思表示をすることはあまりない。しかし、日本人がいつも「ノー」といわないわけではない。兄弟や親しい仲良し同士では気軽に「ダメだよ」「いやだ」「違ってるよ」ということばは使用されている?!袱いいā埂袱坤帷埂搁g違い」などの言葉が使用できないのは、ある人間関係を前提にしていることが多いのであって、日本語にそのような言葉が存在しないということではない。確かに目上の人、距離をおかなければならないような人に対して、「いいえ」を使うことは通常の関係狀態(tài)ではなく、それを使うことによって相手の気持ちや意志を尊重しないということを宣言する役割を果たすことが多く、いさかいや口論のきっかけとなる場合が少しではない。社會的な交わりでは日本人は感情を強(qiáng)く、直接的に表現(xiàn)してはならないとされている。感情を抑制できないと、人間として未熟であると思われている。怒り、嫌悪、侮辱といった不快な感情を言葉や身振りで強(qiáng)く表に出すと、周りの人はいやな気持ちになるものである。悲しみや恐怖感も、他人に不安感を引き起こす。うれしいときでさえ、他人を傷付けないように抑えた表現(xiàn)が大切である?!弗惟`」と言えない日本人という言葉があって、日本人は「ノー」と言わないのがすごく悪いようにいわれているが、そこの文化だったら、相手が「ノー」と言わねばならないようなことを言うのがもう失禮なんだという。日本人は自分の気持ちやイエス、ノーをはっきり言わないので、それが曖昧な態(tài)度に見えてしまう。
終わりに:以上、「曖昧語」の定義及びコミュニケーションから日本人の「曖昧語」をいくつかの例を挙げて説明した。但し、本文はまだ表層の現(xiàn)象しか分析できないため、今後は、このテーマについて続けて研究すると思う。
參考文獻(xiàn) :
[1] 大江健三郎.《我在曖昧的日本》.南海出版社.2005
[2] 真田信治.《日本社會語言學(xué)》.中國書籍出版社.2003
[3] 張丹宇.《日本人的曖昧表現(xiàn)及其心理》.日語知識.2002