摘 要:拒絕是一種違背他人請(qǐng)求極易破壞人際關(guān)系的言語(yǔ)行為,但卻在生活中屢屢發(fā)生,無(wú)法避開(kāi)。因此為了避免人際交往中因拒絕產(chǎn)生的障礙,有必要講究各種各樣的策略。希望通過(guò)中日拒絕表現(xiàn)的對(duì)比研究,更清楚了解中國(guó)人和日本人的思維看法,達(dá)到彼此理解。
關(guān)鍵詞:拒絕表現(xiàn);策略;異文化;間接的
[中圖分類號(hào)]:G04 [文獻(xiàn)標(biāo)識(shí)碼]:A
[文章編號(hào)]:1002-2139(2012)-15-0324-02
1、はじめに
「日本語(yǔ)が話せないわけじゃない、どうして日本人と深く付き合えないのか?」「日本人の言葉はいったいどういう意味なのか?分かりにくい?!工趣い盲客鈬?guó)人の文句をよく聞くが、なるほど、なんとなく日本人と心が通じないような場(chǎng)面を経験する。大學(xué)院生時(shí)代、ある程度言語(yǔ)學(xué)と異文化の見(jiàn)方との勉強(qiáng)を通じて、初めて、言語(yǔ)はその社會(huì)特有の行動(dòng)形態(tài)や、価値観などといった文化的制約とも切り離すことができないので、いくら流暢な日本語(yǔ)が話せる學(xué)習(xí)者でもコミュニケーションを行うに際し、自文化の持つ価値観などの意味體系で行動(dòng)するため、誤解を受けたり、微妙なズレが生じて、母語(yǔ)話者との関係が疎遠(yuǎn)になってしまうことにもなり兼ねないと意識(shí)した。
本稿では、私は「斷り」のストラテジー及びその社會(huì)的、文化的な要因の追究に焦點(diǎn)を當(dāng)て、中國(guó)人と日本人の「斷り表現(xiàn)」を考察した。斷り表現(xiàn)の研究と分析を通じて異文化間のおける円滑なコミュニケーションを阻害する要因を明らかにし、適切な日本語(yǔ)表現(xiàn)を身に付け、異文化の壁を乗り越え、お互いの理解に達(dá)することを望んでいる。
2、「斷り」のストラテジーについて
「斷り」は危険性を持つ発話行為であるが、我々の日常生活において、しばしば直面して逃れようとしてもできない問(wèn)題である。その時(shí)、対人関係上での「障害」が生じないよう配慮し、様様なストラテジーを講ずることになる。森山氏(1990)が日本人の斷り言語(yǔ)行動(dòng)をストラテジーという観點(diǎn)から分析し、「謙型」、「噓型」、「延期型」、「ごまかし型」という四つのストラテジーを提案し、調(diào)査を行った。調(diào)査の分析を通じて、斷り方が混沌したものではなく、上下や親疎によってそれなりの傾向があるし、男女差もあると言うことを述べた。
目黒(1994)は「目標(biāo)達(dá)成するための方向付けとしてのストラテジー」という観點(diǎn)から斷りの間接的行為方略を考え、森山氏の提案する四つのストラテジーに加えて、「謙遜型」ストラテジーを提案した。また、「謙遜型」の會(huì)話への理解度と対応の仕方を比較した結(jié)果、日本人と比べて中國(guó)人は依頼をやめるのが早いことを述べている。
3、異文化の視點(diǎn)から見(jiàn)た社會(huì)的、文化的要因
日本は集団の秩序を重んじ、上下関係が非常に厳しい社會(huì)であるので、日本人が発話行為のストラテジーを選択する際に考えるのはまず「上下関係」次に「親疎関係」である。個(gè)人の意識(shí)や行動(dòng)をその雰囲気に対立させることは集団的秩序の破壊を意味することになるので、なるべく柔軟で遠(yuǎn)まわしの間接的な「斷り表現(xiàn)」が通常日本人に使われている。しかし、日本語(yǔ)の微妙さを知らない外國(guó)人學(xué)習(xí)者にとってそのような間接的な斷り方は理解するのが難しいと考えられる。それゆえに、異文化間の誤解をできるだけ少なくするには日本語(yǔ)の言語(yǔ)學(xué)的知識(shí)や日本語(yǔ)のそのような表現(xiàn)技術(shù)を?qū)Wぶことが必要なのだと思う。
私は中日の社會(huì)人を?qū)澫螭衰ⅴ螗暴`ト調(diào)査を行い、中國(guó)語(yǔ)と日本語(yǔ)の「斷り表現(xiàn)」について比較対照の視點(diǎn)から考察してみた。結(jié)論として以下のようなことが明らかになった。
①斷り表現(xiàn)の分析を通して、日本人ははっきり不可能であることを相手に伝える。ただし、「無(wú)理だ」「いやだ」の使用をなるべく避けて、自分の気持ちを相手に察してもらおうとするのが伺えるのに対し、中國(guó)人は相手が自分のことを信頼して頼んでくれることを、なかなかはっきり不可能であることを伝えられず、相手のことを配慮し、遠(yuǎn)慮を示すという柔らかな表現(xiàn)、あるいは、積極的に熱意を示す表現(xiàn)を多用することが分かった。それも中國(guó)語(yǔ)の斷り表現(xiàn)は日本語(yǔ)のほうよりバラエティーに富む理由の一つだと考えられるだろう。
②斷りの理由として、日本人は時(shí)間?時(shí)期的な理由を多く用い、気軽に斷れるのに対し、中國(guó)人は「誰(shuí)とどこで何をする」という具體的なものを挙げ、自分の斷りの行為を弁明するのが多く見(jiàn)られる。感情と理屈を一つにするのは中國(guó)人の世渡りのルールであるが、実際には理屈の方より感情を大事にする。負(fù)擔(dān)が軽いことにしても、重いことにしても、斷る場(chǎng)合には、なるべく、人の感情を傷つけないように配慮し、具體的な理由を挙げ、何とか自分の手伝おうしても手伝えない気持ちを弁明するではないかと考えられる。しかも、中國(guó)人の挙げた理由はほとんど家族?親族に関わるものである。それは中國(guó)における人間関係の基礎(chǔ)である家族主義によるものだと思う。歴史を振り返ると、中國(guó)の中核となる共同體が家庭から宗族、村落へと変化するプロセスを経て、最後に縦では共同體の祖先と家系図が認(rèn)められ、橫では、親族的な絆が重んじられる。家族?親族のことに関係があれば、容易に理解され、理由として通せるのではないかと考えられる。
③中國(guó)人はほとんど言い切りの形を用いるのに対し、日本人は?~ので(から)…?「今日はちょっと…」などの言い切らない形を用い、相手に考える余地を與えると同時(shí)に自分の気持ちを察してもらう表現(xiàn)が多く見(jiàn)られる。それは中國(guó)と日本それぞれの言語(yǔ)文化によるものだと思う。加藤(1973:191)は「日本人にとって、コミュニケーションとは、しばしば無(wú)言の交渉過(guò)程でもありうるのである。くどいほどの饒舌が、“理解”にいたる道だ、というのは、必ずしも日本人に受け入れやすい真理ではない…日本人は、きわめて同質(zhì)的な民族であるから、そのコミュニケーションはしばしば、饒舌はもとよりのこと、言葉さえも必要としないのである。」と述べている。中國(guó)人はまったく反対な性格を持っている。自分の意志?意見(jiàn)を強(qiáng)く主張し、話を最後まではっきりさせないと、自分の気持ちがすっきりできないどころか、相手にとって、意味が通じない恐れがある。今までの先行研究では、一方的に言い切りの表現(xiàn)が不自然な日本語(yǔ)になってしまうか人間関係を壊しやすくなるという指摘ばかりされたが、日本人側(cè)においても、もっと広い視野で、異文化間の理解を深めることも必要ではないかと思う。
斷り研究を通じて中國(guó)人と日本人のそれぞれの見(jiàn)方、考え方をはっきりしたうえで、中國(guó)人のための日本語(yǔ)教育、ならびに日本人のための中國(guó)語(yǔ)教育の改善に有効であると考えられる。
參考文獻(xiàn):
[1]、目黒秋子(1994)「『謙遜型』斷りのストラテジー」『東北大學(xué)文學(xué)部日本語(yǔ)學(xué)科論集』第4號(hào)
[2]、森山卓郎(1990)「『斷り』の方略―対人関係調(diào)整とコミュニケーション―」『月刊言語(yǔ)』第19巻8號(hào) 大修館書店
[3]、加藤秀俊(1973)「日本文化とコミュニケーション」『情報(bào)と生活』(講座?現(xiàn)代の社會(huì)とコミュニケーション5) 東大出版社
[4]、翟學(xué)偉(2001)『中國(guó)人行動(dòng)的ロジック』 社會(huì)科學(xué)文獻(xiàn)出版社