【摘要】在第二語(yǔ)言的學(xué)習(xí)中,語(yǔ)言能力除了語(yǔ)音語(yǔ)法知識(shí)外,還應(yīng)該包括學(xué)習(xí)者在具體的語(yǔ)言使用中如何正確運(yùn)用符合具體的語(yǔ)言環(huán)境的目標(biāo)語(yǔ)言的能力。其中后者被稱(chēng)為語(yǔ)用論的研究。語(yǔ)用論的研究跟如何定位學(xué)習(xí)者密切相關(guān)。在本篇文章中,圍繞語(yǔ)用論研究中語(yǔ)用論遷移的內(nèi)容,以對(duì)日語(yǔ)學(xué)習(xí)者的不同定位為標(biāo)準(zhǔn)進(jìn)行了考察??疾斓慕Y(jié)果是針對(duì)不同階段,能力不同的日語(yǔ)學(xué)習(xí)者,應(yīng)該進(jìn)行不同的定位,以此采用不同的語(yǔ)用論知識(shí)的指導(dǎo)。
【關(guān)鍵詞】日語(yǔ)教育;語(yǔ)言能力;語(yǔ)用論;語(yǔ)用論遷移;學(xué)習(xí)者定位
一、はじめに
言語(yǔ)能力は1960年代半ばまで、音韻、文法生成などの言語(yǔ)構(gòu)造に関する知識(shí)として定義されてきた。Hymes(1972)は言語(yǔ)能力の意味をより広義に捉え、具體的に、?いつ、誰(shuí)に、どのような狀況で、何を伝えるかを把握し、その目的や場(chǎng)面に応じた適切な言語(yǔ)使用をする能力も含む?コミュニケーション能力を提唱した。それ以來(lái)、1980年代以降、コミュニケーション中心の外國(guó)語(yǔ)教育の分野では、學(xué)習(xí)者の語(yǔ)用論的知識(shí)の研究が進(jìn)展を見(jiàn)せた(近藤 2009)。日本語(yǔ)教育の分野でもその影響を受け、學(xué)習(xí)者のコミュニケーション能力を高めることが重要な目的とみなされるようになった。それに従って、第二言語(yǔ)習(xí)得研究においては、學(xué)習(xí)者が?依頼??誘い??斷り?などの発話行為をどのような言語(yǔ)形式を用いていかに遂行しているのかを明らかにしようとしてきた中間言語(yǔ)語(yǔ)用論の研究も數(shù)多く出てきた(藤原 2006)。本稿では中間言語(yǔ)語(yǔ)用論における語(yǔ)用論的転移の部分を取り出し、それらの研究における學(xué)習(xí)者観に焦點(diǎn)を當(dāng)て、考察を行いたいと思う。語(yǔ)用論的転移とは、端的にいうと、プラグマティック·トラスファーであり、藤原(2006)によると、話者が目標(biāo)言語(yǔ)で発話行為を行う際に自身の母語(yǔ)の様式を用いるのではないかという見(jiàn)方を指す。
本稿の構(gòu)成は、第2節(jié)では、今まで語(yǔ)用論的転移の持つ學(xué)習(xí)者観の歴史的流れを概観し、それぞれの問(wèn)題點(diǎn)をまとめる。第3節(jié)では、これらの學(xué)習(xí)者観の研究をどのように日本語(yǔ)教育に生かすのかについて考察する。
二、語(yǔ)用論的転移の持つ學(xué)習(xí)者観の概観
1、従來(lái)の學(xué)習(xí)者観——母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の學(xué)習(xí)者観
(1)母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の學(xué)習(xí)者観
母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義は母語(yǔ)話者の言語(yǔ)能力を規(guī)範(fàn)に置き、その規(guī)範(fàn)と照らし合わせて非母語(yǔ)話者の言語(yǔ)様式を逸脫と見(jiàn)なし、第二言語(yǔ)學(xué)習(xí)者が母語(yǔ)話者と比べ、その能力が限定された言語(yǔ)話者であるという學(xué)習(xí)者観を持っている。この見(jiàn)方に基づき、第二言語(yǔ)習(xí)得の目標(biāo)は非母語(yǔ)話者が目標(biāo)言語(yǔ)の母語(yǔ)話者の話す言語(yǔ)を基準(zhǔn)とし、自分の第二言語(yǔ)能力を母語(yǔ)話者に限りなく近づけることにある。すなわち、母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義において、第二言語(yǔ)學(xué)習(xí)者は母語(yǔ)話者のいわゆる規(guī)範(fàn)的な話す言語(yǔ)を一方的に受け入れる受動(dòng)的な存在である。
(2)母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の問(wèn)題點(diǎn)
藤原(2006)によると、母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の問(wèn)題性は以下のようにまとめられている。
①母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義をもとにする第二言語(yǔ)習(xí)得研究が、第二言語(yǔ)話者を能力の限定された?欠陥のある伝達(dá)者?と扱ったことに問(wèn)題がある。
②Kasper(1997)により、母語(yǔ)話者が均質(zhì)な存在ではない點(diǎn)など母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の妥當(dāng)性に対する疑いがある。
2、學(xué)習(xí)者観の発展-受動(dòng)的から能動(dòng)的へ
従來(lái)の母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の問(wèn)題點(diǎn)に対し、最近の研究では、第二言語(yǔ)習(xí)得の目標(biāo)を目標(biāo)言語(yǔ)への同化とする把握を転換させ、より積極的に捉え、第二言語(yǔ)習(xí)得の目標(biāo)は第二言語(yǔ)話者による友好的対人関係を築き上げることに置く傾向が見(jiàn)られてきた。つまり、第二言語(yǔ)習(xí)得の目標(biāo)を同化から円滑化へ、學(xué)習(xí)者を受動(dòng)的から能動(dòng)的へといった捉え方の変化が見(jiàn)られる。ここでは、學(xué)習(xí)者の能動(dòng)性·主観性を主張する岡崎(1995)とSiegal(1996)に指摘された語(yǔ)用論的転移における學(xué)習(xí)者観を挙げたいと思う。
岡崎(1995)では、韓國(guó)人日本語(yǔ)學(xué)習(xí)者の語(yǔ)用論的転移を調(diào)べた結(jié)果に基づき、第二言語(yǔ)學(xué)習(xí)者を?第二言語(yǔ)の學(xué)習(xí)者は単なる習(xí)得上の規(guī)則の受け入れ皿という客體的な存在としてではなく、受け入れ文化側(cè)の話者との間に積極的に円滑な関係を作ろうとして行動(dòng)する主體的な存在?として把握されている。
Siegal(1996)では、ある日本語(yǔ)學(xué)習(xí)者の第二言語(yǔ)を使用する際の社會(huì)言語(yǔ)的能力を継続的に観察した結(jié)果から、第二言語(yǔ)學(xué)習(xí)者は第二言語(yǔ)を用いる際に、その社會(huì)において自分自身がどのような立場(chǎng)にいるのかを理解し、自身の社會(huì)的アイデンティティを自ら交渉する能動(dòng)的な行為者であるという學(xué)習(xí)者観が主張されている。
この二つの學(xué)習(xí)者観に共通しているのは學(xué)習(xí)者が受動(dòng)的な存在ではなく、自分の主観性を持つ能動(dòng)的な存在ということを強(qiáng)調(diào)していることである。
三、考察
1、語(yǔ)用論的転移のもつ學(xué)習(xí)者観の研究が日本語(yǔ)教育への活用
コミュニケーション中心の第二言語(yǔ)習(xí)得において、語(yǔ)用論的転移の研究を言語(yǔ)教育にどう生かすのかということは、英語(yǔ)教育における実踐の研究が見(jiàn)られてきた。近藤(2009)では、英語(yǔ)學(xué)習(xí)者は単なる受身の學(xué)習(xí)者であることに留まらず、積極的に自ら言語(yǔ)を分析し新たな発見(jiàn)をすることによってメタ語(yǔ)用論的見(jiàn)方ができるようになるという學(xué)習(xí)者観のもとに、語(yǔ)用論的知識(shí)の指導(dǎo)として、?明示的教育??意識(shí)付けの方法?といったインプットまたコミュニカティブな練習(xí)によるアウトプットの実踐が効果的であると述べられている。
一方、日本語(yǔ)教育において、このような學(xué)習(xí)者観を語(yǔ)用論的知識(shí)の教育実踐とつなげる応用の研究はまだ見(jiàn)られないような現(xiàn)狀であるといえる。ここでは語(yǔ)用論的転移の持つ學(xué)習(xí)者観の研究を日本語(yǔ)教育に応用する提案を試みようと思う。
2、母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義の學(xué)習(xí)者観
母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義には問(wèn)題點(diǎn)が存在するのは確かなことでありながら、必要となる點(diǎn)もある。すべての言語(yǔ)は固有の社會(huì)と文化で用いられる。ある言語(yǔ)で例えば?依頼?をする場(chǎng)合、その言語(yǔ)の社會(huì)文化の規(guī)範(fàn)の制約を受けている。しかし、この規(guī)範(fàn)は文法的な規(guī)範(fàn)と異なり、必ずしも明確に記述されていないもののほうが多いだろう。そのため、母語(yǔ)話者の使う言語(yǔ)からまとめるしかない。均質(zhì)な母語(yǔ)話者が存在しないことは事実でありながら、多數(shù)の母語(yǔ)話者の一般的な使い方をまとめられないわけではないであろう。教室でよく耳にする?日本人は普通そういう言い方はしない?というような先生の指導(dǎo)はやはり母語(yǔ)話者の話し方を規(guī)範(fàn)としているのであろう。また、もし日本語(yǔ)教育の現(xiàn)場(chǎng)で、日本語(yǔ)母語(yǔ)話者の使い方を規(guī)範(fàn)としないと、學(xué)習(xí)者の使い方をどのように判斷するのかは難しくなるに違いない。そのため、日本語(yǔ)教育の現(xiàn)場(chǎng)では、特に學(xué)習(xí)者が初級(jí)の段階では、學(xué)習(xí)者に母語(yǔ)話者の話す言語(yǔ)を規(guī)範(fàn)とすることは必要であると思っている。なぜならば,第二言語(yǔ)習(xí)得の初級(jí)にいる學(xué)習(xí)者は第二言語(yǔ)の語(yǔ)用論的知識(shí)に乏しく、?能力不足の伝達(dá)者?であることは事実であるから。すなわち、母語(yǔ)と目標(biāo)言語(yǔ)の語(yǔ)用論的な違いを明示的に意識(shí)させないと、母語(yǔ)の語(yǔ)用論的知識(shí)をそのまま目標(biāo)言語(yǔ)に持ち込んで使い、誤解やコミュニケーションに支障を招く恐れがある。目標(biāo)言語(yǔ)の語(yǔ)用論的な違いを明示的に意識(shí)させるために、第二言語(yǔ)母語(yǔ)話者の使い方を規(guī)範(fàn)として、學(xué)習(xí)者の母語(yǔ)との比較と通し、その違いを意識(shí)させることは第二言語(yǔ)の語(yǔ)用論的知識(shí)を身につけるのに効果的であろうと思う。
3、主観性·能動(dòng)性のある學(xué)習(xí)者観
コミュニケーション中心の第二言語(yǔ)習(xí)得において、言語(yǔ)學(xué)習(xí)の目標(biāo)はネイティブスピーカーと並びの言語(yǔ)能力を身に著けることではなくなり、言語(yǔ)學(xué)習(xí)ということを通し、目標(biāo)言語(yǔ)に新しい自己形成を目指すことにある。その新しい自己形成は、単に母語(yǔ)話者の話す言語(yǔ)を照らしながら自分の言語(yǔ)を規(guī)範(fàn)するだけでは不十分であり、自分が円滑な関係を能動(dòng)的に構(gòu)築しようとする自分の発話規(guī)範(fàn)が形成されて初めてできるものである。そのため、第二言語(yǔ)學(xué)習(xí)者、特に中上級(jí)の學(xué)習(xí)者は実際の発話を目標(biāo)言語(yǔ)の規(guī)範(fàn)に完全に合わせるのではなく、自分のアイデンティティを保ちながらも相手に誤解を與えない程度の気配りをしながら発話ができるように努力しようとすべきではないかと思う。日本語(yǔ)教育の現(xiàn)場(chǎng)では、中上級(jí)の學(xué)習(xí)者を?qū)澫螭趣工雸?chǎng)合、語(yǔ)用論的知識(shí)を指導(dǎo)するには、ある発話場(chǎng)面で?母語(yǔ)話者がそうする?と教えるより、この場(chǎng)面で自分がどうするかと考えさせるように、學(xué)習(xí)者の能動(dòng)性を高められるような活動(dòng)のほうに中心をおいた方がいいではないかと考える。
四、おわりに
以上見(jiàn)てきたように、語(yǔ)用論的転移における學(xué)習(xí)者観は受動(dòng)的な母語(yǔ)話者規(guī)範(fàn)主義學(xué)習(xí)者観と能動(dòng)的學(xué)習(xí)者観とに大別されている。この二つの學(xué)習(xí)者観は対立しているものではなく、學(xué)習(xí)者のレベルおよび目標(biāo)により、この二つのどちらかをとるか、また、両方が同時(shí)に存在する場(chǎng)合があると思う。
日本語(yǔ)教育の現(xiàn)場(chǎng)でも學(xué)習(xí)者の段階また目的により、適切な學(xué)習(xí)者観をとり、それに基づき、具體的な指導(dǎo)を行うべきだと思っている。本稿では応用の提案はまだ実証の段階に至っていないため、今後の課題として実験や調(diào)査などによる検討が必要である。
【參考文獻(xiàn)】
[1] 岡崎眸. ?日本語(yǔ)學(xué)習(xí)者における語(yǔ)用論上の転移再考?[D]. 『東京外國(guó)語(yǔ)大學(xué)論集』第50號(hào), 1995.
[2] 藤原智栄美. ?社會(huì)文化の接面に立つ學(xué)習(xí)者を理解する?[J]. 『文化と歴史の中の學(xué)習(xí)と學(xué)習(xí)者』凡人社, 2006.
[3] 近藤佐智子. ?中間言語(yǔ)語(yǔ)用論と英語(yǔ)教育?『Sophia Junior College Faculty Journal』, 2009,29.
【作者簡(jiǎn)介】
陳蒙(1985—),女,重慶南川區(qū)人,四川外國(guó)語(yǔ)大學(xué)大外部講師,碩士研究生學(xué)歷,主要研究方向:日語(yǔ)教育。