楊麗英
(凱里學(xué)院,貴州 凱里 556011)
鷗外の留學(xué)土産の青春小説は、「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」の三つを數(shù)える。このうち、今回の研究対象を「舞姫」としたい。この作品は、鷗外の文壇への処女作である。この作品は鷗外文學(xué)の起點となるため、広大な鷗外研究の中で最初から多くの研究者の関心を集め続けてきている。
豊太郎の二つの心が生まれる原因は、當(dāng)時の社會、家族と自分自身三つの豊太郎の変わり易い性質(zhì)があると思う。本稿は家族と自分自身から、論じたい。
豊太郎は父を早く亡くし、母の手一つに育てられた。一番の成績で大學(xué)を卒業(yè)した秀才太田豊太郎は、某省に出仕して、日本的家の重圧を背負(fù)い、母の願いのとおり「活きたる辭書」[1]になろうとした。「我名を成さんも、我家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇みたちて」とあるところに、豊太郎の心境がよく現(xiàn)れている。
ドイツに留學(xué)する前の豊太郎は、「まことの我」[1]についてなにも考えず、ただ家を興すために働いて生きている。留學(xué)して三年が終わるまで、豊太郎は家のために頑張り続けている。四年目に入ると、これまで寢ていた自我が目覚めた。しかし、自由な生活を志しながら、國を背負(fù)っている責(zé)任も棄てることができない。だから、ドイツにいる間、豊太郎は立身出世と自我の生との二つの心を同時に持っている。
母は「余を活きたる辭書」と願い、官長は「余を活きたる法律」としようとした太田豊太郎だが、免官され、唯一の肉親である母親も亡くなる。「所動的、器械的の人物」のような生活が逃れることができる。自我に目覚めた太田豊太郎は、「まことの我」として暮すことができることになる。太田豊太郎は自分が思っているように、エリスといっしょに「まことの我」の生活を始めた。エリスと一緒に暮らしている太田豊太郎は、「憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ」というような生活をする。これまで、暮らしていた「所動的、器械的の人物」のような生活と、いま「憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ」という生活を比べると、太田豊太郎は後者のほうが自分にとって好ましい生活だと考える。
あるいは、エリスという人が存在していたから、太田豊太郎は、自我の目覚めも強くなったのかもしれない。エリスがいなければ、太田豊太郎は、「まことの我」 の生活ができなかったかもしれない。ドイツ人としてのエリスも自我の目覚めのようなものを持っていたかもしれない。だから、エリスは座頭と母親に反抗して、自分は願うような生活ができた。最後、エリスは太田豊太郎に裏切られたが、太田豊太郎より自我の目覚めが強いこともけっして否定できないと思う。豊太郎はドイツに留學(xué)して、大學(xué)の自由な雰囲気の中で、目覚め、エリスと出會って、豊太郎の目覚めは強くなって、「まことの我」の生活を始める。しかし、太田豊太郎のように変わり易い性質(zhì)の人に対して、その「まことの我」の生活は長く続かなかった。友人相沢謙吉の忠告もあり、天方伯に従い、日本に帰ることを決心する。
帰國を決めたのち、太田豊太郎は「所動的、器械的の人物」の生活に戻っている。だが、太田豊太郎は消えない恨みを持って帰國の旅を始めた。太田豊太郎はエリスとの愛を棄てたこととあわせ、自分が「所動的、器械的の人物」の生活に戻っていることに苦しんでいる。その恨みはきっと太田豊太郎の一生を通じて消えないだろう。
要するに、太田豊太郎の恨みは自分に対してのものだと思う。もし、自分が立身出世の願望を斷念できたら、「まことの我」の生活ができたであろう。自己の立身出世の願望を斷念できないから、自我の目覚めも根本的なものにならない。
エリスを棄てた時、表面的には、豊太郎は立身出世の心しか持っていないように見えるが、帰國の途中で豊太郎が悩み苦しんでいる?!袱菠藮|に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず」ここからみると、自我という心を人に見えないところ――心の奧深くに隠しているのではないか。
エリスと付き合う前の豊太郎は國家を代表する官長と家を代表する母のために、生きていた。エリスと付き合っている時の豊太郎は、立身出世と自我の二つの心を同時に持っている。このときの豊太郎は國家や家のために生きていると共に、自我の生活も順調(diào)に進んでいるので、豊太郎にとって一番幸せな生活ができていた。しかし、なぜ、最後に、エリスを棄て、友人相沢の誘いに従って、相沢のような政治権力に依存した外的行動に活路を見出したか。その一つは、「われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり」[2]と記述しているように、豊太郎の変わり易い性質(zhì)によるところもある。
豊太郎は変わり易い性質(zhì)の人であるから、ドイツに留學(xué)して、ドイツの大學(xué)の雰囲気に囲まれると、豊太郎は自由な思想の影響を受けて、これまでの自分に対する生き方を疑い、自我目覚めのコースを選ぼうと思う。豊太郎は、受け身の生き方から自己を押し出す方向に変わった。だが、上司に疎まれ、また偶然に助けた踴り子との交際を讒言されたことによって官を免じられた。そのとき、思いがけなく、母からの手紙とその死を告げるもう一通の手紙を受け取る。そして、激しく心が動揺する間に、踴り子エリスと結(jié)ばれる。最も強い家からの束縛がたち切られることになって、豊太郎とエリスは離れ難い仲となった。しかし、変わり易い性質(zhì)を持っている豊太郎は相沢との再會で、帰國の勧めを拒みきれずに承諾する。元々のコースに戻った。豊太郎はエリスと將來どうしたいという決定的な意思を述べないまま、結(jié)局エリスとは別れる運命になってしまうのである。運命が殘酷に引き裂いたという言い訳をしているように見えるが、実は豊太郎の変わり易い性質(zhì)が招いたことなのである。これからみると豊太郎は二つの心、すなわち、立身出世と自我という二つの心を持っていることも見て取れる。主人公豊太郎が意志薄弱である人だと感じられる。
本稿は豊太郎の二つの心が生まれる原因を考察した。そして、豊太郎は國家や家庭だけでなく、なにより自分の心の中にある立身出世の願望を捨てられないことが分かった。豊太郎の変わり易い性質(zhì)の人だから、エリスを捨てるしかない。今後、「舞姫」の漢文化影響の研究とする。
[1]森鷗外.『森鷗外全集』第一巻[M].巖波書店,1986:26-35.
[2]長谷川泉.『森鷗外「舞姫」作品論集』[C].クレス出版社,2000:7-8.